就活生も、転職を考えている人も、この先の生き方働き方を考える際、企業へのPRとして社会貢献や自己成長という表面的で抽象的なワードを使う人が少なくありません。
◆そもそも成長とは
貴社と共に成長、事業を成長させる、自己成長をしていく、といったようにとても使いやすくあらゆる文脈の中で「成長」という単語が使われます。
最もイメージしやすいのが、子供が赤ちゃんから体が大きくなり、大人として育成されていく事を成長と呼ぶことができると思います。
企業に置き換えれば、スタートアップ企業が年々少しつずつ売上を伸ばし、従業員が増えていき、利益を増やしていく過程においてもこの成長という単語は当てはまるでしょう。
◆努力の適切な手法と方向性を見極める
どんなに努力しても頑張っても、全く成果が上がらず、楽しくも無ければ時間が流れるのも遅くて報われない。そんな経験はあるでしょうか。
・自分はこんなに頑張っているのに、誰にも認められない
・とても苦労しているけれどなにも変化もないし成果も出ない
そんな時は、いったん立ち止まって、そのやり方(手法)や努力の方向性が正しいのか確認する必要があると考えます。
成長も、努力も、その事自体が目的とされていたり善とされていたりする論調にありますが間違いです。
その努力の方向性が、全く違う方向に向いていて、かつ、自分の才能や得意を活かせていないのであれば時間の無駄になる事があります。
例えば、継続してコツコツ頑張って努力をしていればいつか報われるという教えもあります。しかし、人生は有限であり、そんな悠長な事は言っていられませんし、少し考えが盲目的だと思います。
頑張っても報われないかもしれないが、適切な手法で、適切な方向に向けて、その道程において指導者や出会う人々により、適切に努力していけば成果につながることもある。
という事が正しい表現ではないかと思います。
もちろん、その努力の過程を否定するものではありません。
徳川埋蔵金が無いかもしれない可能性がかなり高まってきたとしても、そのお宝を信じて努力する姿に意味が無いわけではないからです。
なぜならば、宝探しに目を輝かせて地中を掘り下げるそのプロセスにおいて、本人はとても満足し、あっという間に時が流れていくからです。
それは、周囲の人から見れば理解し得ないものかもしれませんが、本人にとってみたら幸せな時間の使い方=ハッピーキャリアと言えるでしょう。
◆努力と成長は同じベクトルでは無い
どんなに努力しても報われない事がある。
かと言って、それを始めから突きつけられたら何も行動しない事にもなりかねません。
ある程度、夢を見させておきながら、適切なタイミングで、良き指導者や関わる人々が、努力のベクトル、方向性を適宜修正していく。
そうする事によって、本人はより自身の才能や得意に磨きがかかり、やる気にもつながるのではないでしょうか。
頑張っても頑張っても報われない事を嘆く時間が一定期間長く続くようであれば、それは、努力はしているけれども成長しているとは言えないかも知れません。
そんな時には、1年を4つに区切って3ヶ月単位でその努力の方向性や手法が適切かどうか見極め、軌道修正をかけていく必要があると考えます。
その際には、頼れるメンターや相談者が居た方が、後々この努力の過程は無駄であった、という後悔は減ると思います。
仮に間違った方向に向け努力を重ねていたとしても、先ほどの徳川埋蔵金のように、そのプロセスが無駄かどうかは、極めて主観的なものであり、他者が評価できるものではありません。
運動神経がよくなくて足が遅くてもウサインボルトに憧れて陸上部に入りひたいに汗かき練習をする過程に無駄と言える人は居ませんし、その先の身の振り方は本人が本人の自主・自立精神に基づき主体的に判断する事です。
しかし、本人がその努力の方向性がもしかしたら間違っているかもという事に、節目節目で気づかせてあげられるメンターは必要かと思います。
どんなに練習を重ねて10年、15年の歳月が流れた時に、気づいたら30歳を過ぎていて、セカンドキャリアを築くには、経験もスキルも不足していて選択肢が狭まってしまう可能性がある事。
そして、成長していたのかどうかについては、後々のキャリアを歩む上で評価が分かれます。
なぜなら、
自分としては、成長していたと自己肯定していても、その成長で得られた能力やスキルという枝葉が、その企業の目指す方向とは全く見当違いの方向に伸びてしまっていた、なんて事が起こり得る からです。
進化の過程で、水中に生息していた生き物が、地上に這い上がり、本当は二足歩行を目標としていたはずが、空ばかり見上げて飛ぶ練習を重ねていたため、いつの間にか脚は生えたけれど羽も生えて、歩行では無く一気に空まで飛んで行ってしまった、というようなベクトルの違いです。
◆有限時間をいかに楽しく過ごせるか
仕事が嫌いで、組織や権威や束縛が嫌いで、自由が1番という人は、月に1度海外旅行にでも行き、ハンモックに揺られながら遅めのモーニングでも食べていれば幸せを感じられるでしょう。
または、組織や権威や束縛は嫌いだけれども、社会とつながっていないと、自身のアイデンティティを確認する事が出来ない人。そのような方は、自由というのはこの上ない苦痛と孤独なものです。であるならば、時間を拘束されても雇用されて働いていた方が自身の存在価値や意味を見出せると考えます。
ただ、合わない仕事を合わないなぁ、も思いながら嫌々続ける事は、ハッピーキャリアでは無くて、貴重な時間を無駄にしているだけかも知れません。
・働くか、働かないか。
・雇用されるのか、独立するのか。
・自分が、どんな状況に置かれ、なにをしている時、あるいはしていない時に幸せを実感する事ができるのか。
それらを、節目節目で人のアドバイスも受けながら、自身で想像し、仮定し、デザインするために、立ち止まる時間と客観視が必要なのではないでしょうか。
◆成長は、結果や成果ではなく気づいた瞬間
・あれ、この仕事、私に合っているのだろうか。
・おや、全くやる気が出ないが正しいのだろうか
・とても苦痛なんだけれど、我慢しなきゃいけないのかな
そう考えた時が、もしかしたらその人の1年の中の4回に区切った時の1回、もしくは、キャリアで立ち止まって考える節目なのかも知れません。
・このやり方、この道は必ず光の刺す方へ進んでいる
・今は暗いトンネルの中だけれど必ず出口に向かっている
と自分を信じる事は、パワーの源泉にもなりますが、盲目的に真っ直ぐ先しか見えていない事はリスクが伴うどころか、危険な兆候なのかも知れません。
自分の歩んで来た道や、信じる方向性を疑う事は、これまでの努力を否定し兼ねない、勇気の要る事ですが、後々大きな後悔と時間の無駄使いに気づくよりマシではないでしょうか。
・他の道もあるかも知れない
・いったん来た道戻ってみようかな
・誰かに相談してみよう
成長とは、子供が大人になるように、種子が芽吹き大きな花を咲かせるように、企業が売上を伸ばし利益を伸張させるように、という分かりやすいものではない。
自分の中の、ルーティンや、盲信を一度全て取り払い、いったん立ち止まって考える。
そして、新たな思考や気づきを得られた時こそ、成長と呼べるのではないでしょうか。
前だけを見て進む事はイカしているものの、もしかしたら目的そのものが、「努力」や「成長」になってしまっている過ちに陥っているかも知れません。
あらゆる思考や言動、個々の生きる先に目指す先やそのプロセスには、努力や成長という表面的で抽象的なものでは無く、
それをしているとあっという間に時が流れる物事に気づき、その心のワクワクや楽しみが長く継続している「状態」こそが、目的であり、ハッピーキャリア
なのだと考えます。
立ち止まったり、もう一度来た道を引き返したりする事は決して恥ずかしいことでは無くむしろ勇敢な人生の選択です。
外野がどう否定してこようと、彼らはその本人の人生を並走するわけでも無ければ、失敗した時の責任を負ってくれるわけでもないので言わせておけばよいです。
自身の目指すハッピーキャリアに向けた、主体的な思考と、適切な手法と方向性に向けて考えてみてください。
決断するのは本人ですが、もちろん、適切な方向性や認識を示す支援者としてご相談にはいつでも乗ります。